【不定期連載】シベリウスと伊福部昭の作風、そしてラウダ・コンチェルタータ 12

2017年07月31日

さて、伊福部先生のお人柄エピソード編に移って参りましょう。

先生が注目されるきっかけとなった「チェレプニン賞」ってなに?この辺りも「伊福部昭の音楽史」に教えていただきました。
賞を創設したアレキサンドル・チェレプニンは、ロシア貴族出身の作曲家でありピアニストでした。
奇特な方で、日本人を対象とした作曲コンクールを、自ら主催されました。
このときの審査員はルーセル、タンスマン、イベールなど、当時のパリで活躍する一流の作曲家達だったといいます。
北海道庁の森林官を勤めながら、独学で曲を書いていた伊福部先生は、このコンクールにオーケストラ曲「日本狂詩曲」で挑み、見事一等賞を受賞します。
1936年に日本を訪れたチェレプニンと出合った伊福部先生は、生涯で唯一となる指導を受けました。
そのときのエピソードに、このようなことがありました。
「コードを決めるとき、ふと三回叩くと、チェレプニンが脇で見ていて、そこは三拍にするのかと尋ねてくる。いや、一拍と答えると、それじゃあテストにならない。音というのは運動と継続の芸術だ。作品では一度しか鳴らないコードを二度三度とテストしては、絶対に音楽にならない、叩くのは一度だけで決めろという。聞こえない音、決めても後で覚えていない音は書いてはならぬというのが彼の主義でした。込み入ったコードを書いても判るものでない、つとめて単純にしろ、絶対にコードを目で書いてはならない、要するに和声学など必要ないということです。」

そしてついにチェレプニンが伊福部先生に言ったこととは、「日本の作曲家とはずいぶん会った。しかし、どの男も酒が弱いな。伊福部。ヨーロッパでは、酒を飲まずに歴史を作った人間は一人もいないんだ。日本にはいるかね?」
「いないと思います。」
伊福部がそう答えると、チェレプニンはにっこり笑ったのである。

「そう、酒も飲めないで大きな仕事ができた人間は一人もいない。伊福部、君は酒が飲める。私は気に入ったよ。条件の半分は整っているじゃないか。音楽家になってはどうだ?」
それでも決心はつかず、北海道で林務官、林業試験場などを歴任しますが、ついに1946年8月16日にこれまでの職を辞し、作曲家を志し上京します。

まるで新聞の連載小説のようになってまいりましたね!

山本 勲
(次回へ続く)



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